第四話:光明 歩み出す決意を

(執筆者:hishio)

 

 

夢を見た。
とても幸せな夢。とても温かい夢。
香る緑に包まれて、淡い陽光に照らされて、
アミュレットの屋敷の庭の一角に設置されたティーテーブルを中心に、
家族四人だけの小さなお茶会がひらかれていた。

その祝福されているかのような一面の優しさの中で、自分は確かに笑っていた。
対面に座り、緑に咲くたんぽぽのような優しい笑みを浮かべて自分の話を嬉しそうに聞いてくれている母。
その脇に立ち花壇に咲く花を愛でながら、落ち着いた様子で二人の会話に耳を傾ける兄。
空、屋敷、庭、その場の三人。そこにある全てを見守るように微笑みながら静かにお茶を楽しむ父。
皆も笑っていた。皆が笑顔に囲まれていた。

しかし何故だろう、声が一切耳に入ってこない。
懸命に、とても楽しそうに、話をしている自分の口からすらも、声が聞こえてこない。
ふと気づくと、談笑している自分とは別に、もう一人、自分がそばに立っていて、
いつの間にかそちらの視点からその光景を俯瞰している。
その作り物のような、消音された映像をとても遠く感じた。
少し、ほんの少しだけ妬ましく思った。目に映っているのは紛れもない自分自身だというのに。

映像は再生をやめない。
不意に、スクラッチノイズのような音が耳をくすぐる。同時に周囲の光景が白く、白くぼやけていく。
背後から声が聞こえた。雑音と共に流れてきた為聞き取り辛かったが、確かにその声は自分の名を呼んでいた。
愛しい声。意識がはっきりしなくとも、その声の主だけは間違えない。
冷えていた自分の心に血色が戻る。赤みを帯びていくのを感じる。声がした方に向いた。
そこに立つ黒い人影に向かって、手を伸ばし、声を───

出せなかった。
自分の体をすり抜けるように、座っていた自分の姿をした映像が彼のもとへと向かっていくのを見たから。
眺めていることしかできなかった。
それはやはり砂漠に迷う者をあざ笑う蜃気楼のような、
手の届く気がしない、現実味の一切を感じられない光景に思えた。



目覚めたティアの目に徐々に映っていったのは見知らぬ天井。
まどろみの中に叩き込まれた真新しい情報に脳が叩き起こされる。
目を見開き、上体を起こ───そうとして、頭痛に再び押し倒された。思わず閉じた目の端から涙がにじむ。
静かに咳を一つ。喉の痛みに息苦しさを感じる。背筋には寒気。雨にやられてしまったのだろうか。
頭を押さえようと上げた両手は痛みが落ち着くとそのまま甲から自分が寝かされている寝台に落ちる。今までに感じたことのないその湿気た不快な感触に、ティアは再び状況の異常さを自覚する。
慌てて周囲を確認しようと首を振ってまた頭痛に泣かされる。二度もブレーキをかけられると流石に冷静になれた。

改めてゆっくりと、上体を起こす。自分が置かれた切り取られた空間を見渡した。
金属製の冷たい壁に覆われた小部屋だった。どこを見ても鼠色。小さく固い寝台以外には古ぼけた便器と格子のついた小窓と、ノブすらない質素で頑強そうな鉄扉くらいしか特徴のあるものはない。遠くから腹に響くような、何かを燃やしているかのような低い機械音が聞こえる。

困惑した。何故自分はこんなところにいるのだろう。
記憶を辿ろうとして、すんでのところでやめる。鮮明に残っていたイメージを心が理解することを拒んだ。心音が大きく響いて体が縮こまる。
夢に見た映像を思い出した。その自分にとっての幸福の象徴のような人達の姿、幸せの絶頂にいるかのような自分の幻影の姿を脳裏に描いた。
同時に滲んでいた涙もまた、頬に線を描いた。それはティアの中に再び幸せへの渇望が生まれたことの証明。
萌芽は荒れた土に色彩を増やす。昨夜黒く染まり凍てついた心と体が溶け出していくような感覚を覚えた。
しかしその幻影はあくまで幻影である。昨日自分に向けられた刃が、俯く自分の頭の前に再び突き付けられたような気がした。両腕で膝を抱く。肩が、唇が、指先が、冷たく震えているのがわかる。
ハルトが自分を拒絶した。その事実ははっきり思い出すまでもなく容赦なくティアをモノクロに戻していく。
現実への絶望と希望への渇望のせめぎ合いが、自分の現状を理解させまいと恐怖を増幅させる。
変わってしまった過去、一寸先の未来、現在いるこの灰色の空間、頭に響く痛み、寒さが後押しする寒気、
自分が今持っているもの、自分が失ってしまったもの。
全て、全てが自分を責めさいなんでいるかのように思えた。

あたしは、これからどうすればいいの?

声に出さず、誰にともなく問う。
闇は無言の回答をした。

ごんっ! ごんっ! ごんっ!

何か固いものがぶつかるような鈍い音がリズミカルに三回、部屋の扉越しに聞こえた。驚いて、沈んでいたティアの体が跳ねた。つい「ぴっ」と小鳥のような悲鳴を上げてしまった。
それはノックというにはあまりにも大きすぎた。外に何かいる。まさに今何かが起こっている。
ティアの理解が不安に変わるよりも先に、

がちゃり

乾いた開錠の音が部屋に響いた。
続けて、扉が開く。ということはつまり、ここに何かが入ってくる。
それは考えられるとすれば今の状況を作り上げた人か、
それとも自分を助けに来てくれた人か。

「ハルくん…?」

今一番来てほしい人の名を、そうであってほしいと望む人の名を呼んだ。
祈るように。祈るように呼んで。扉の先を見つめる。
そのか弱い祈りをゆっくりと踏みつけるように、扉の影から黒ずくめの、しかし見覚えのないドミニオンの男性が半身だけ姿を見せた。

沈黙。

二人の間に何とも言えない空白の時間が流れた。戸惑いから、ティアは寝台の隅、相手に対して奥側へと後ずさる。頭から血の気が引くのを感じる。

(誰?)



ティアの姿を確認したアステガは再び部屋の外、細長い廊下に向く。城内にいる人間は全て片づけたつもりだったが念のため。
たった今気絶させた見張りの頭を靴底で転がしながらナビを取り出し、共に潜入していた仲間の一人に呼び出しをかけた。応じたのを確認し、挨拶を待たず此方から要件を言う。

「目標を確認した。そっちは」
「”設置は完了。あとついでに城内のセキュリティを管理してるパネルの電源を全て落としてみました。今この飛空城は完全に砂上の楼閣ですわ”」
「…………。そうか、それ言葉の使い方違ぇぞ」
「”え?あれ?”」

相手の女性が気の抜けた声を上げると、またそれとは別の人物の遠慮のない笑い声が遠くから聞こえた。
一応犯罪組織に潜入して工作に及んでいるという字面に起こせば危険な状況なのにこの緊張感の無さはどうなのか。苦笑を噛み殺す。

「じゃあナナクサ連れて先に出ろ」
「”? あなたはどうするのです?”」
「もう少し城内を見回る」
「”……。今騎士団がこちらに向かってるのはわかっていますよね?もし見つかったらどう言い訳を──”」
「どうにかする。こいつが表に出れなきゃ意味ねえだろう」
「”もうちょっと心配する仲間のことも考えた方がモテますよ”」
「合図はナビでメールを送る。ニユにもそう言っとけ」

そこまで言って早々に通話を切り、ナビをしまう。理由は嫌味が長くなりそうだったのともう一つ。
念に入れた念が、不幸なことに正解だったらしい。
牢の扉から出て左側、曲がり角となっているその先から二人分の足音が近づいてくる。
音の発生源の姿が見えるようになるタイミングに合うように、そちらに向かって服に巻かれたベルトに仕込んでいた小型のナイフを力任せに投擲する。
それは空気を割きながら直線を引きながら飛び、曲がり角から姿を見せた人物の頭の前を通り過ぎる。壁に着弾して金属同士がかちあう高い音が鳴った。
後を追うように、重い、鈍い音が壁に響いた。アステガの右手が、見回りの男の頭を掴み勢いよく壁へと叩き付けた音。突然目の前を通り過ぎた物体に、その衝撃に何事が起きたのか混乱させる暇も与えず、その音を二度、三度、立て続けに鳴らした。掴んだ頭から力と意識が抜けていくのがわかった。

「きさ」

その後ろにいて、ようやく状況を理解できたもう一人の見回りは怒声を、上げられない。その右手に持つ拳銃の狙いさえつけられない。
壁から跳ね返って左手に戻っていたナイフを、アステガは刃を持ち、柄が前になるようにして再び投擲する。それが男の鼻の真下を直撃し、全行動を妨害した。怯んだ隙に懐へ。片方の手で銃を持っている方の腕を壁に固定し、もう片方の手は拳を作り、相手の顎を殴打する。そしてそのまま髪を掴み、先の男と同じように鈍い音を数回慣らすと、先の男と同じように彼もまたその場に崩れ落ちた。

そうしてまた辺りに静寂が戻る。
周囲を見渡す。もう人影はない。

夜明けより早くジーマンが流した騎士団襲撃という内容のガセの情報から、この飛空城内部は人質をとっているとは考えられない程警備が手薄となっていた。甲板に集まった戦闘員達もいつまで経っても現れない敵への警戒にさぞ疲弊していることだろう。

(とはいえのんびりしてらんねえ)

今のような不測の事態は十分考えられるし、何より先程見た時わかったが、確認した目標の少女は明らかに体調を崩している。
牢に戻りながらこれからどうこの事件を滅茶苦茶にするのかを考える。
条件を加味すれば無理矢理にでも囚われていた彼女を抱えて外に出るというのが一番の安全策なのだろう。
が、そうする気は無かった。誰かに行動を強制されたり疎外されたりということはアステガにとっては何より嫌なことだった。
勿論、する側に回ることもまた然りである。



あたしは待ってた。
いつだって待ってた。待つあたしのところにいつもハルくんは来てくれた。

「今城内にいる奴は片づけた。この部屋から出て左へ、階段見つけたら必ず上るようにして道なりに進み続ければこの飛空城の表に出られる」

何か求めて手を伸ばしたら、いつもハルくんはその手を取ってくれた。
何かしたいと思ったら、いつだってハルくんはあたしがしたいと思うことをさせてくれた。

「今、騎士団が攫われたテメェの救助のためにここに向かってる。それがここに来るのと同時に表に出て声上げるなりすりゃ保護してもらえるだろ」

昨日のあの時だって、あたしは手を伸ばしただけだった。
伸ばした手は跳ねのけられてしまったけれど、でも……

「……さっき呼んでた名前だが」

いつもあたしは待ってた。いつもあたしは待ってただけだった。
あの人が応えてくれることがとても幸せだった。でも……

「もう一度そいつに会いたいなら、そいつと話がしたいなら」

今日もきっとあたしは待ってただけだったと思う。
あの突然現れた名前も知らない怖い顔の人の言葉を聞かなかったら。

「縮こまってねえでそいつのとこまで行けばいい」

その言葉に胸の奥が跳ねた。
あたしは、これからどうすればいいの?
さっきの言葉にはなんの答えも帰ってこなかった。
多分それは、あたしがどうしたいかがわかっていなかったから。
ハルくんに拒絶されて、ハルくんと一緒にいられなくなって、何が正しいのかがわからなくなって、自分が空っぽになって、そうしてあたしは諦めてた。

諦めてた。何もしてないうちから。

「道なら開けた。方法も教えた。ここを出るも待つもテメェの勝手だ。誰も何も言いやしねえしどっちにしろ結果は同じかもしれねえが」

この人は助けてくれない。ここまでのお話を聞いてそれがなんとなくわかった。

わかったけど、なんだかかなしいとは思わなかった。

できることを示してくれている。それが今のあたしにとっては何よりも大切なことだと思った。

「あとはテメェのやりたいようにしろ。じゃあな」



言いたいことを言うだけ言ったアステガが部屋から出て行った後、取り残されたティアは心の中に小さな火種を見つける。

やりたいようにしろ。

音を鳴らさず復唱して、汗に濡れて震えていた両手の平をじっと見つめる。

あの雨の中、ハルくんが震えていたことに気づいていた。ハルくんもかなしんでいることに気づいていた。
ほんとは一緒にいたいんだって、同じ気持ちなんだって、わかっていた。
だから突き放されたことが、自分の気持ちまで否定することが正しいことだと言われた気がしてつらかった。
あたしはいつもハルくんの手に引かれていたから。でも……でも……。

あたしだってハルくんの手を引こうと思えば引けたのかもしれない。

手の平をぐっと力いっぱいに閉じる。
震えはそれでも止まることはなかったが、止めようと思って行動をとったという事実はティアの中に勇気を生んだ。
ゆっくりと寝台から降りる。頭は朦朧とするし痛みも続いている。進む先にある未来への恐怖も未だ消えない。
それでも、先程よりは心なしか気分が晴れている心地がする。
僅かだけど、何か光明が見えている気がする。

開け放たれた扉の前、目を閉じ、右手を胸の前へ。乾いた喉に唾を流し、一度深呼吸。
まぶたの裏に、もう一度夢に見た幸せを描く。

もう一度、ハルくんと話をしにいこう。
また拒絶されるかもしれない。そう考えたらやっぱり怖い。
でもそうなったら、その時はどうしたら一緒にいられるのかを話し合ってみよう。
何もしないままこのまま離れ離れになるのはいやだ。
あたしはハルくんと一緒にいたい。だから今度はあたしが迎えに行ってみよう。

とても小さく頼りない、しかし幽かに輝き放つ標のような決意を固めてから、ふらつく体を引っ張ってティアは一歩部屋の外へ───



「……え?」

出たところで先程のドミニオンの男に言われた言葉が引っかかった。

───騎士団が攫われたテメェの救助のために───

昨日の出来事のショックからか、ずっと自らの内面と向き合っていたティアには現状のことを考える余裕がなかったというのは先の通り。

「攫われた…?さらわれた……サラワレタ……」

情報を確認するように繰り返す、体がそれに追いつくのに一秒、二秒、三秒。
漠然とした未来への恐怖ではなく、今そこにある恐怖をはっきりと理解したことで、体から汗がどっとあふれ出た。寒気で体の感覚が一瞬わからなくなった。今勇気を出した手前、またもこぼれそうになる涙を必死に堪えた。
感じたプレッシャーからか、体を庇うように両手を逆の二の腕へと回し少し体を強張らせ───

「ん!」

下方へと向いたその視界に、その恐怖を証明するかのような映像が飛び込んできて、今度は叫びたくなるのを堪える。
扉から出てすぐのところの床で、人が白目をむき泡を吹いてうつ伏せに倒れていた。
嫌がらせのようにはっきりくっきりと見えるようこちらに向いていたその顔からティアは即座に目を逸らす。
逸らした先にも同じように倒れ積み重なった人、人。目にするたびに目がまわり、パニックを起こしそうになった。
驚きの声を押し殺す。少しでも音を立てたら彼らが起き上がって自分に襲いかかってきそうな気がしたから。
またティアの脳裏に先程の男の声が流れる。

───今城内にいる奴は片づけた───

ここにきてもう姿の見えないその人のことを少し恨めしく思った。こんな怖いところならせめて一緒にいてくれても。
同時に疑問にも思った。

あの人はなんだったんだろう?ここの人達の仲間でもなくて、騎士団でもないのなら?

少しでも冷静になるととたんに視界がぼやけて頭が重くなった。考えが纏まる体調ではないこともまた先の通り。
頭は回復した後で使うことにした。恐怖をはっきりと認識するのも後。今そんなことしていたらいつまで経っても動き出せない。今はただ体を動かす方がいい。そうなんとなく理解する。
前へ。ゆっくりと、ゆっくりと前へ。進んだ先で想い人とまた会える未来が訪れることを信じて前へ。一分でも一秒でも、その瞬間が早く来ることを願って前へ。
子兎は進む。虎穴の中を一歩、一歩、確かめるようにして。


*



日が真上に差し掛かろうとする空に、二台の飛空庭が隣り合って、繋がり合って浮かぶ。
片方は大小さまざまなコンテナの積荷を大量に、逆に人は送舵輪を持つ丸腰の騎士団員が一人。
もう片方は人が大量に、それらの何人かが手に持ったボウガンを接舷した先の無力な一人へと向ける。

「動くなよ。口も開くな」

ボウガンを手に持っているうちの一人が言う。言われた騎士団員は言われるがままにするしかない。
その間に先までただたむろしていた人間達が庭を移り、積荷へと群がる。
一つ、一つとコンテナは向かいの飛空庭へと移されていく。

これが犯罪組織が要求した身代金の渡し方。
互いに飛空庭で指定した場所へと移動し、今の流れ。騎士団側は乗員を一人だけとする。人質としたティアの存在をちらつかせ反抗させず、取引中、後はその乗員がまた人質となる。

「ごくろうさん。確かに受け取りました」

積荷を移し終わると、閑散とした庭にまた声が投げかけられた。
向けられた矢は逸れない。多くの鋭い視線のようなそれは孤独で無力な一人を縛り付けている。

「そんじゃお嬢さんのことはこっちから追々また連絡すっからさ」

そこまで言うと向けられていた視線が物理的なものへと変わり、縛られた体を幾度も射抜いた。孔だらけとなった体は力をなくし、庭の上面に横たわった。
この人質に生死は関係ないし手元にいる必要もない。

「安心して死んどけや」

品の無い乾いた笑い声が次々と上がり、取引を終えた彼らは彼らの根城へと引き上げる。
あとには血痕のついた飛空庭だけが残された。



少し時間を遡る。

「……ここまでがその犯罪組織が要求してきたことだよ」

ほぼ同時にかかった呼び出しに応じ、キリヤナギのいる彼の執務室へと駆けつけたハルト、ジン、カナトは現状の詳細な説明を受けていた。

「……ジン、相手の狙いは何だと思う?」

説明が一区切りしたところでキリヤナギは問う。

「要求にあった身代金と食料……あとは人質の追加もそうじゃないっすかね。『一人だけ丸腰で庭に置け』なんて露骨すぎでしょ。ティアちゃんがピンポイントで狙われたんなら例の宝石が要求に入ってないのは妙っすけど……」
「宝石を知らない相手にたまたま誘拐の標的にされたのか……それか、もしかしたら追々そっちの要求も来るのかもしれない。今回、向こうはこの要求に応じれば人質を開放するとは言ってないわけだし」
「まあ言ってたとしてもしないとは思いますケドね……危険っすね。取引に応じるのはこっちの人員の命の保証がない上、向こうに調子に乗らせちまうから当然悪手として、応じずに攻撃すんのもまたティアちゃんの身が危ない。」

答案用紙に促されるようにジンは冷静に状況の把握を進める。
ハルトもまたそれを聞いて特に興奮するでもない。何か心境を変化させるようなことでもあったのか、その眼はしっかりと自分が進む先を見据えるように穏やかな光を放っている。
その二人の落ち着いた様子にキリヤナギはほっとする。

「そうだね。けどだからと言って無視もできない」
「ジン達を呼んだ以上、何か策を用意しているのだろう。もったいぶらずに早く話したらどうだ」
(うん、君のことは呼んでなかったんだけどなんでさも当然のように一緒に来てるのかな……)

カナトに急かされたキリヤナギは遠い目をした。
心中を察したのか、カナトはまた追い打ちをかけるように詰め寄る。その態度に冗談めかしたような様子は一切見受けられない。

「……一つの犯罪集団を相手取るということはそれなりに大きな規模の作戦になるはずだな。それなのにここにはジンとハルトさんの二人だけしか呼ばれていない。これはどういうことだ?私もこの場に同席できているのだ。まさか言えないということはないだろうが」
「待って。それはこれから説明するから落ちついて。というか僕にも気持ちの整理させて」

話の腰を雰囲気だけで折るような言葉。聞いたジンは小さな女の子の告白じゃあるまいしと心の中で茶化した。
果たしてこの作戦を部外者であるカナトにも明かしていいものかキリヤナギは今一度逡巡する。
しかしやはり諸々の事情以前に彼がジンの同居人であることを考えると、きかれた以上は危険な作戦を発案した者が自分の口から説明するのが筋だろうという結論は変わらない。
この場に来たのも今の詰問もまた彼がジンの身を案じているからこそなのだろうし。その想いには応えねば。

ただ、どうせジンの口から知れてしまうのだろうし、できればそうしてほしかったというのも本音としてはあった。
こちらも立場上、追い返す訳にもいかないということはカナトもわかっているだろうに。わざわざ自分から話を聞くためだけに足を運ばなくてもと思ってしまうのは身勝手だろうか。
言葉ではなく溜息をもらしてしまった口をつききる前に紡いだ。視線が痛い。胃が痛む。
ぼやいていても仕方ない。キリヤナギは覚悟を決めて咳払いをした。

「結論から言うと取引には応じるよ」
「マジすか」
「大丈夫なのか?ここで屈すると各所への信用に関わってくるのでは?」

ジンとカナトは否の色を隠さずに口にする。
勿論、ただで応じるわけはないと二人ともわかってはいる。
なだめるようにキリヤナギは話を進めた。

「勿論、ただで応じたりはしないよ。まず操舵士は新生魔法使いのドッペルゲンガーにやってもらう」
「ドッペルゲンガー?ドッペルゲンガーってあのドッペルゲンガーっすか?」
「うん。使い手達の話だとそれなりの腕であれば戦闘以外の用途にも使えるんだって。単純な操舵くらいならできるだろうって言ってた。サイズは誤魔化す方法がいくらでもあるだろうし」
「なるほど……そんで、すでにとられてる人質のほうはどうすんです?」
「君達を呼んだのはそのことでなんだ」

ここからが本題だと言うかのようにキリヤナギは真剣な顔を作る。声色も少し緊張した雰囲気を帯びる。

「これより君達二人に依頼する潜入作戦の概要について説明します。…その前に、ハルト」
「……」

呼ばれ、それまで俯き気味になり黙って話を聞いていたハルトは顔を上げる。

「僕や君の扱う武器、戦い方は潜入作戦には向かないことはわかってると思う。それに条件が条件だからこの作戦は少人数じゃなきゃできないんだ。つまりこちらにとってもそれなりに大きなリスクを負うものになるわけだけど……」

この言葉を聞いても揺らいだ様子を一切見せないハルトの目を見てキリヤナギは、これからする問いがまるで意味のないものであることを確信した。
だがこれはただの問答ではなく、謂わば決意の確認。
ハルトが今この場に立っているのは私情によるものだ。ハルトがティア嬢を助けに行きたいという心からの。
自分もまた、ハルトが自分の手でティア嬢を助け出すことができればこれ以上はないと思っている。

ただキリヤナギは、その私情の裏に隠れた恐怖にも似た感情に引っかかりを感じていた。
参加部隊の人間でもないのにこんな厄介な役を買って出てくれる人物がいるとするならば、自分の立場なら使わずにおけるわけがない。それが信を置ける者であれば尚更だ。
ハルトの目を見ても尚、そんな打算的な考えを頭の内に入れているということは、
もしかしたら自分は、その立場故に彼の想いを利用しようとしているのではないのか?
できることならハルトに危険を冒してほしくない。確かに自分が本心だと思っていたその気持ちは、実際は後ろめたさに対しての言い訳ではないのか?

こんな問いに意味はないのだろう。
もし今更止めようとしたとしても、彼は何にも頼らず自力でティア嬢を助け出しに行くくらいのことはするに違いない。
それだけの決意を固めている。
どうにせよ同じことだ。
ならば、どうせなら、自分も自分の心と向き合った上でハルトの背を押す決意を固めたい。
何故だか問いに対しての答えを聞くことでそれができる気がした。

「それでも、君は自分の手でティア嬢を助けに行きたいかい?」



これはそのさらに少し前の出来事。
呼び出しに応え、キリヤナギの元へと向かっていたハルトのナビゲーションデバイスにひとつの着信が来ていた。
応答した後、ナビ越しに聞こえたゆっくりと枯れゆくような、疲弊した声をハルトは思い出していた。

「”もしもし、ハルト。僕だ。ディオルだ。
まず、昨日君を突然に屋敷から追い出してしまったことを僕の口から詫びる。
すまなかった。しかし僕たちは父上の決定に反する訳にはいかない。そのこともまたわかってほしい。
その上で、今になって秘密裏に君に連絡をしている厚顔な僕を君は嗤うだろうか。怒るだろうか。
君も知っているのではないかな。ティアが何者かに誘拐されてしまったということを。
……そんな話、もう自分とは関係ないと思うかな。そうだとしたらすぐこの通話を切ってほしい。
…………。
今日ほど、僕は自分の非力を呪った日はないよ。
僕たちには、力がないんだ。
ティアの居場所がわかっても、妹を攫った人間達がどういうやつらかわかっても、
僕も、父上も、勿論フレッドも、あの屋敷にいる人間は皆、今の妹を助けられるような力を持たない。
笑えるだろう。笑えるよね。君があの子にとって危険な存在だと判断した僕たちが、危険のただなかにいるあの子を救うことができないでいるんだよ。ただ狼狽して自分の無力をかみしめることしかできないんだ。
だから僕は卑怯な手を使うことにした。
僕らにはない力を、ティアを救い出す力を……ハルト、君は持っているんじゃないかな。
これは何も荒事に慣れているということだけを言っているんじゃないんだ。
断言するよ。今、妹が待っている人がいるとしたら僕らのうちの誰でもなくて……君だ。
あの子の想いに応える力を持っているとすれば、それは君しかいないんだよ。
……今から君の想いを利用するようなことを言うよ。軽蔑するなら軽蔑してくれ。
もし今の君にティアを想う気持ちが残っているのなら、
頼む、ティアを助けに行ってくれないか”」



ジンとカナトは俺の背中を押してくれた。
ディオルは俺の想いに確たる自信をくれた。
キリヤナギは俺に進む道を示してくれた。
皆がティアに背を向けた俺に、また振り返る勇気をくれた。
あの時、俺はティアに剣を向けてしまった。どんな理由があれど、ティアを泣かせるために力を使ってしまった。
その剣を今一度ティアを護るために振るうことが正しいことかどうかは今もわからない。
それがティアの為になるのかどうかも。そうすることで、あいつが笑ってくれるかどうかも。
もしかしたらまた自分の力の程度やその使い方を見誤ってティアを危険に晒してしまうかもしれない。

それでも、先のことはわからないけど、
今は自分の気持ちに素直になろうと思う。
きっとここで逃げたら後悔する。自分がどうしたって結果は同じだとしても、その先に不幸な結末しか待っていなかったとしても、それはティアを助け出したいという自分の気持ちに嘘をついたことになるのだから。皆の気持ちを無駄にしたことになるのだから。

なにより、ティアの悲しむ顔も、喜ぶ顔も、見ることができなくなるのだから。
それは嫌だな。
もうティアから逃げるのは嫌だ。

「行くよ。俺はティアを助けに行く」

決意を口にしたハルトは目を見開き、ティアの方へと振り返る、そして迷いなき一歩を──



活気のない甲板を横風が撫でる。
中空にそびえ立つ犯罪集団の根城に、飛空庭が接舷されていた。その庭に山と積まれていたコンテナは人の手で一つ一つ城へ、リングハウスへと運ばれていく。
さながら死の行軍のように。一つの目的が達された直後だというのに、飛空城に蠢く人間の中に笑みを浮かべている者は一人たりとていなかった。
皆、氷のような緊張感の中にいる。今か今かと来るはずのない攻撃に、包囲に、怯えて、警戒して、連続する一秒を生きている。
裏の情報通から混成騎士団に自分たちの居場所を知られており、襲撃が来ると初めて知らされてから二桁もの時間がかかろうとしている。その後何度か場を移しても、その度に同じ情報が流れてくる。今はなりを潜めたが、それでも居場所が割れた理由がわかっていない。
つまり身の安全の保障というものが今の彼らにはないのだ。
その上、ひとつでも目的を達成してしまったという事実が逆に彼らの退路がないことの証明となっていた。石のない坂を転がり落ちる雪玉のよう。要求を重ね上手に逃亡を謀る以外に、彼らが自由を手にする方法はない。今になって全員がそのことを改めて自覚した。
だからこそこうして仕掛け人と神の視点を持つ者にしかそうとわからぬ徒労を彼らは続けている。

静かだった。普段通りであれば歓喜のままに成果を漁ろうとするだろうごろつき達が、今回に限っては欲望よりも警戒を優先する。全員が同じ危険信号を見ていることでその場には一種の秩序が生まれていた。
金銭は勿論、食料も屋内へと運び入れた後、各人交代制で摂取するという方針へ。
この時、少しでも彼らが気を緩めていたらあるいは未来は違ったものになっていたのかもしれない。



リングハウス内、薄暗い倉庫の中には次々とコンテナが運び込まれていった。そこへ二人の男女が特にサイズの大きなコンテナを両端を支え合いながら運び込む。

「確かこいつが最後だったな」
「ええ、早いとこ置いて、まずはウチらだけさっさといただきましょう。このコンテナも食料のって書いてあったからさ」
「だな。もうなんか疲れた。腹だけでも埋めなきゃやってられん」

重さにうめくような声でした会話を互い以外に聞くものはいなかった。少なくとも二人はそう思っていただろう。
可能な限り奥側へと運んだ後、軽く掛け声でタイミングをとってから注意深く床へと置く。ずっと力を込めていた腕に、脚に、開放感が訪れたことで二人とも深く息をついた。
男は一度屈伸をする。そしてコンテナとは逆側を向いて座り込んでから時間をかけて息を吸って吐いてを繰り返す女の方を見て、これはちょっとでも休ませた方がよさそうだなと思ってから、

「んじゃ早速。他の奴を待たせるのも悪いしね」

コンテナの蓋を手に取った。
ほんの少し開けたところで男は右手首の辺りに小さな棘でも刺さったかのような痛みを感じた。一瞬のことだったので気のせいか疲れているのかと思い、気にせず力を込めてさらに蓋を上へ上げると今度は首筋にも似た痛み。
違和感はすぐに訪れた。視界が色だけの世界に変わり、それが一回転した、と思ったら今度は暗幕がかけられる。
そこで男の意識は途切れた。自分が倒れてしまっていることにも気づかぬまま。
派手な音を立てて自分の身体を床に打ち付けた男に女の方も振り返る。驚きから、その時既に延髄の辺りに男が感じたそれと同じ痛みが走っていたことに彼女は気付けない。
振り返ったその視界もまた同じくぼやけきったものに変わる。倒れていく感覚すらわからず全身の力が抜けていく。
そうして二の文字を作って眠ってしまった二人を、コンテナの中から現れた二つの人影が見下ろす。

「見事なもんだな。麻酔銃か」
「ええ。なんかの役に立つかもっつって持たされたんすけど、多分頼るのはここまでっすね。こっからは起きるかもしれない奴を縛る暇ないだろうし……しゃーねえし実弾使って動きを止める方向でいきます」
「そうか……ここまではうまくいったな」
「そっすね。正直賭けでしたけどうまいこと運んでくれてよかった。いろいろ道具を入れておいたのもよかった」

静かに、静かに話しながら、二人はコンテナから出したロープやベルトで今寝かせた相手を動けないよう、うまく声も出せないよう拘束した。
終わり、手を小さく叩きながら立ち上がった片方が──エミルの男性がもう片方、イクスドミニオンの男性を真っ直ぐ見て口を開く。

「んじゃ俺らがやることをもっかい確認しますよ。俺がこのタイプの城の地図を持たされてるんでそれを見ながら内部を探索。ティアちゃんの身柄を確保。んでこの城から離れたとこを囲む形で待機してるうちの総隊長や騎士団に連絡を入れます。そっからは俺らは本隊がここに来るのを待って、来たらそのタイミングで表に出てから脱出させてもらいます」

言いながら男は拳銃を腰のホルスターから抜く。聞いていた男もまた、腰に差した長剣の柄に手を置き感覚を研ぎ澄ました。殺気で象られた結界のような近寄りがたい雰囲気が彼を覆う。

「んじゃ前衛は任せますよ。いいっすね?ハルトさん」
「了解だ。行こう、ジン。ティアのところへ」

 

 

第三話INDEX第五話 

 

 

 

* WEB CLAP * 
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